バスク地方は、フランス南部、スペイン北部に位置する。3月19日、バスク地方の少数言語保全を唱い、大イヴェント、ラ・コリカ(ランニングの意)が開催された。参加者は数十万人に昇り、バスク地方の町村のほぼ全域を走行、この地の共通語であるバスク語を象徴するメッセージを記したバトンを手渡しながらリレーする。11日間、延べ210時間に渡り、全走行距離は2300キロメートルに及ぶ。
このメッセージはゴールで読み上げられる。個人から様々な団体に至るまで、バスク語保全のために、行程をキロ数で「買い取り」、その基金は、ラ・コリカを主催するAEKと称される大人向けのバスク語学校の運営に宛てられる。
Euskaraと呼ばれるバスク語は、現在約100万人に使用されている。公用語として認められている地域もあるが、ユネスコによると、ある地域では依然絶滅の危機に晒されている。
AEKの主催するラ・コリカは2年ごとに開催され、今年で第19回目を迎える。ラ・コリカの成功を受けて、カタルーニャやアイルランド、ブルターニュ、ウェールズなど世界各地でも少数民族語の保全に向けた運動が広がっている。
バスク語保全に、なぜラ・コリカが必要か ?
Euskaraと呼ばれるバスク語は、様々な政治的もしくは精神的迫害を受け、特にここ数百年で衰退してきた。フランス、スペインの両政府の布いてきた政策が、Euskaraの衰退に直接関連してきた、と多くの言語学者が主張している。
例えば「リング」は、Euskara語が受けた制圧の中でも最も厳しく象徴的なものである。当時、学校ではバスク語を使用することが禁じられており、教師はバスク語で話す生徒にこの「リング」を与える。この生徒は、他のバスク語を話す生徒に「リング」を渡す。このように生徒同士の告発を助長し、週末になって最後に「リング」を持っている者に罰則が課される(多くの場合体罰)。このようにして、次第にEuskara語を使うこと自体が疎まれ、自らの苦い経験から自分の子供たちにも伝承することはなくなった。この「リング」による制圧は、バスク地方全域に渡り、少なくとも過去2世紀は続いたといい、現在でもこの制圧を体験した者が多く生存する。
40年近く続いたフランコによる独裁政権下では、バスク語の使用は厳禁となり、公安による取り締りは厳戒を極めた。Euskara語は、近代化の対極にあるものとして、公からほぼ姿を消した。
1950年代、バスク地方で非正規の語学学校が設立されるようになり、60年代にその数は次第に増えて行った。こうしてバスク語復活に向けての流れが生まれた。70年代に入ると、この動きはピークを迎え、バスク語の読み書きを習う者は数千人にも及ぶようになった。こうしてAEKが創設されたのである。
AEKの創設以来、35年を超えた現在でも、バスク地方の大半でEuskaraは公用語として認められていない。公立の学校では、バスク語での授業は提供されないので、何千人もの生徒たちは、数千キロメートル離れた村にある、Ikastlasと呼ばれる学校まで1年に1度通わなくてはならない。Euskaraを公用語とする少数派の地域でも、スペイン政府は市役所に対してEuskara語の使用を禁止している。バスク語新聞Egunkaria紙は市民の要望に応えて誕生したが、2003年、警察が動員され発禁された。この時、編集幹部数名が拷問を受けたという事実は、バスク人の心に暗い記憶として残っている。フランス国内では、フランス語のみが公用語として認められているため、バスク語で授業を行うIkastala数校が訴訟の対象になった。本年度1月には、Euskaraを公用語と認めた村に対して、訴訟が起こされた。
用語と認めた村に対して、訴訟が起こされた。
Euskara語の保全を求めて、皆でラ・コリカに参加しよう
専門家の間では、今世紀中に世界で7千もの少数派言語が消滅の危機にあるという。Euskara語継承のためには、まだまだ多大な努力を要するが、バスクの地で我々は、言語の消滅にただただ手をこまねいてきたわけではない。
バスク地方の市役所や商店、バール(飲食店)、ではTシャツに記された次のようなスローガンが見受けられる:「Euskara語は我々にとって唯一の自由への権利」、「ある言語を知らないものがそれを教えないからといって、その言語はなくならない。その言語を知るものが話さなくなるからなくなるのだ、「君がバスク語で話すのを聴くのは何と耳に心地のよいことか」。
何千人ものボランティアや名のない者たちが力を集結し、ラ・コリカの大きな流れを前進させて生まれるパワーとプライドが、バスク語保全に大きく貢献、如いてはバスク人として自由の確保、世界に対し自己の見解を確立して生きていくことにつながるのだ。
Itzultzailea: Yoshiko Setsu